グイノ・ジェラール神父の説教
A年 2017
年間の主日
第13〜から
第22まで
年間第13主日
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年間第15主日
年間第16主日
年間第17主日
第18は主の変容(祝いのペーシへ)゙
年間第19主日
年間第20主日
年間第21主日
年間第22主日
年間第13主日 A年 2017年7月2日 グイノ・ジェラール神父
列王下 4,8-11、14-16 ローマ 6,3-4、8-11 マタイ10,37-42
近い内にご自分の弟子たちに授ける使命を果たすことができるように、今日、イエスは明確な方向性を与えようとします。 特に、何においても多過ぎたり、少な過ぎたりする状態の間で弟子たちが正しい平衡を見つけて守るように、イエスは勧めています。 過度の熱意も熱意の不足も避けるべきだとイエスは教えています。 自分の父を愛することは当然ですから、イエスは決して自分の父を愛する人は自分の弟子になるには相応しくない人だとは言っていません。 また、イエスは自分に対する熱烈な愛を求めていません。 私たちの愛が強過ぎたり、弱過ぎたりして、一方にかたよることなく調和がとれているようにと、イエスは願っています。
私たちが一番強く愛する人とは、自分自身です。 それは当然のことです。 しかし、私たちは調和のとれたバランスを守ることが肝心な努めです。 自分を大切にしない人はいつか病気になり、やがて絶望の状態に陥る危険性があります。 これと同様に、自分だけにより頼む人は人々への信頼や自分の信仰を失い、高慢な人になる危険性があります。
「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」とイエスは忠告しています。 私たちは毎日曜日、イエスの直ぐ傍のここに集まり、共同体的な祈りと聖体の秘跡で強められている私たちは正しく生き、調和を得てバランスを取るように学んでいます。 言い換えれば、ここで私たちは神への愛と隣人への愛、この二つの掟を実現しています。 この愛し方は、今日、耳にしたローマの信徒への手紙の中に見つけるでしょう。 「あなたたちも自分は罪に死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と。
「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と言っているイエスは「神と私たち、そしてお互いの愛の交わり」を現そうとしています。神と隣人へ私たちが示す愛が、バランスの取れたものであれば、確かに、私たちを受け入れる人は私たちではなく、キリストご自身を受け入れるのです。 それは、信仰と愛によってイエスは私たちの内におられるからです。 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れます」とイエスは断言します。 私たちの信仰と愛の証しは、まだ神を知らない人々に対して、神を受け入れること、改心すること、信仰には入ることを可能にします。 そのことをイエスは父に祈る時に切に願いました。 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。 そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(参照:ヨハネ17,21)と。
「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。 はっきり言っておく。 わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とイエスは教えています。 コップ一杯の冷たい水はたいしたことではありませんが、愛を込めてそれを与えるなら、この冷たい水は世を変化させることができます。 同じように、コップ一杯の冷たい水はたいしたことではありませんが、信仰はそれを「山を動かす」力に変化させます。 ミサで捧げられているほんの少しのパンとぶどう酒は、同じようにたいしたことではありません。 しかし、信仰はそれらによって世界の人々を救い、全てを新たにするキリストの御体と御血に変化させます。
ですから、イエスに結ばれた状態で、イエスの教えに従う弟子として生き、愛の業を実現しながら、私たちの信仰を宣言しましょう。 そして、私たちがそれらを行うために、聖霊が豊かに働き、バランスの取れた信仰生活の恵みを与えてくださいますように。 アーメン。
年間第14主日A年 2017年7月9日 グイノ・ジェラール神父
ザカリア9,9-10 ローマ8、9,11-13 マタイ11,25-30
夏の暑さがだんだん強くなってくると、私たちの体は疲れてしまいます。 私たちが元気を回復するためには、静かで穏やかな平和を望む必要があると、預言者ザカリアは招いています。 私たちが無秩序な生き方を避けて、聖霊の教え導きに従って、穏やかで静かな生き方を望むように、聖パウロは願っています。 マタイの福音書では、イエスは二度繰り返して休むことを勧めています。
夏の暑さは私たちを疲れさせるので、自分の力を新たにするために私たちは皆休みを取ることが必要です。 特に、自分の生き方についてゆっくりと考えるために、休む時間が必要です。 つまり、日常生活のリズムの速度を緩めて、生きる喜びを味わい、リフレッシュすることが肝心です。 世界中の人々にとって、夏はバカンスの時であり、遊ぶ時、旅行をする時です。 しかし、日本では働く人に与えられる休みの期間が限られているので、この休みの時はかえって皆に疲れを与えます。 ご存じのように、親戚の人に会うために、または気分転換をするためにどこかへ出かける人々は空港や駅の行列、あるいは満員電車でずっと動けない状況に置かれたり、車の長い渋滞のせいで車内に閉じ込められている事が多いです。
自分の家でも他の場所でも健康であるために、休みは長くても短くても必要不可欠なものです。 そこでこの夏の時期に、私たちが自由に選んだ休み方について、イエスはご自分の憩いを味わうように私たちを誘っています。 イエスの憩いとは、まずイエスの親密さが与える幸せです。 また、イエスの憩いは聖霊が与える励ましと新鮮さです。 さらに、イエスの憩いは私たちを強め、新たにする本当の平和です。 イエスが「重荷」と呼ぶものを彼の足元に置くことによって、つまり私たちを重く圧迫し、疲れを与えるものを彼の足元に置くなら、私たちはキリストから必要な憩いを受け、軽く空の状態となるに違いありません。
イエスのそばに来ることは、キリストからある種の癒しを受けると同時に、イエスのように柔和で謙遜な者となることを学ぶことです。 また、キリストのそばに来ることは重荷を背負いきれない人々を助けるために、私たちはその重荷を軽くするための役に立つことを学ぶことです。 イエスは重荷すなわち私たちの日常生活の状態、心配、試練となっていることをよくご存じです。 特にイエスは人間になったことによって、私たちの重荷を取り除きたいということを示しました。 そのためにキリストの軛はとても負いやすいです。 事実を言えば、この軛は私たちの肩に乗せているキリストの憐みの腕です。 確かに、この軛は私たちに安心と深い憩いを与えるのです。
きっと今年の夏も猛暑になり、私たちを冷房の効いた涼しい家の中に引きこもらせるでしょう。 ですから、このチャンスを生かして自分の心を開きイエスと話すために、この憩いの時を上手に使いましょう。 冷房の涼しさを浴びながら、聖霊が与える内面的なリフレッシュについて思い巡らし、考えたらいいのではないでしょうか。 皆様が安らぎと平安を得る夏の時を過ごすように、私は望んでいます。 アーメン。
年間第15主日A年 2017年7月16日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ55,10-11 ローマ8,18-23 マタイ13,1-23
「大勢の群衆がイエスのそばに集まって来た」と、マタイは福音に書き記しました。 神のみ言葉を聞くために、イエスのそばに集まって来た群衆を、今日、私たちの小教区の教会にも見たいと望みます。 残念なことですが、時代はすっかり変わりました。 今日教会に来る少数の信者は、神のみ言葉を聞くためにそんなに夢中にはなっていません。 まして、神のみ言葉を暗記する人々やみ言葉を心に思い巡らす人々はもっと少数です。
しかし、神のみ言葉を受け入れたいと望む人々にとっては、それは命と豊かさの泉です。 預言者イザヤは,それについて証ししました。 信仰のうちに受け留めた、神のみ言葉は考えられないほど素晴らしい結果を実現します。 「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせる、と同じようにわたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。 それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と、神は断言しました。 雨と同じように、神のみ言葉は、人の人生に役立ち、私たちの魂と心を潤し、癒し、実らせます。 それらは、私たちがますます豊かな者となるためです。
神のみ言葉に対して、私たちがもっと注意深くなるために、イエスはたとえを用いて話すことにしました。 解かり易いイメージを使って、イエスは神の愛の神秘のうちに私たちを導こうとします。 種を蒔く人のたとえの教えは、とても明確です。 私たちが神のみ言葉をどのように受け留めるのか、その受け留め方について真面目に考えるように招かれています。 神のみ言葉は、全ての人に与えられているので、私たちが良い土地になるようにイエスは私たちを誘います。 決してイエスは、誰にも説教をしません。 またイエスは 神のみ言葉を無駄にしたとしても誰も咎めません。 ただ至る所に無茶苦茶に種を蒔く人について話ながら、イエスは自分の父についての証しをします。 神は決して無器用な方ではありません。 神は寛大であり、私たちを信じるから、私たちに豊かな収穫を与えるために、惜しむことなく全てを与える方です。
人がみ言葉を受けることができるか、できないか、ということを神は考えずに、そのみ言葉を皆に惜みなく与えます。 神は人を信頼します。 それを知ることが正に、救いの良い知らせです。 ご自分の命のみ言葉、慈しみの言葉や赦しと慰めの言葉を全ての人が喜んで受け入れることができると、神は信じています。 注意深く聞くことができないという私たちの弱さは、神を落胆させません。 むしろ、神は諦めずに私たちに愛の恵みを与え、また優しく語り続けます。 というのは、私たちの欠点と弱さが恵みの種を蒔く神にとって、ますます豊かにその恵みを注ぐ希望を引き寄せるからです。 そうすることで、いつかどこかでその恵みの種が芽生え成長して大きな収穫になると、神は信じておられるからです。
確かに神の目には誰であろうと、全ての人が神のみ言葉を受けることができる者ですから、いつか立派な収穫を実らせる良い土地になります。 神は私たちを信じ、私たちに期待し、私たちが愛の完成に辿り着くまで、神は私たちに愛の言葉を語り続けます。 これこそ、今日の良い知らせです。 今日の良い知らせを心に留め、大きな収穫になるように、この知らせを絶えず思い巡らせましょう。 神はその収穫をご覧になることを既に喜んでおられます。 アーメン。
年間第16主日A年 2017年7月23日 グイノ・ジェラール神父
知恵12,13,16-19 ローマ8,26-27 マタイ13,24-43
今日の三つのたとえ話を通して、イエスは神の国の現在と未来の状態を説明しています。 と言うのは、イエスは種蒔きと種の成長、と同時に収穫と審判について語っているのです。 特に人間の意志を超えて、神の国は「独立している成長の力」であることを私たちに納得させたいのです。 しかし、神の国の発展のためには私たちの個人的な同意と具体的な協力が必要です。 そして、ただ神だけが悪の問題を解決できることをイエスは教えます。
神の国は自分のうちに効果的な働きを持っているので、その成長は止められません。 麦の種やからし種の成長は、それを蒔いた人によるものではありません。 しかし、小麦粉に混ぜたパン種は膨らませるために自分自身のうちに力を持っています。 この三つのたとえ話を通して、神の国の力がどのように私たちの中から働くかをイエスは説明しました。
イエスの本質的なメッセージの内容は、次の言葉で要約されています。 それは「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」(参照:マルコ1,15)と。 ところで、人々がイエスの話を聞いても見た目には何も変化はありません。 イエスが説教をしても、奇跡を行っても人々はなかなか回心しません。 この状態を目のあたりに見ていた自分の弟子たちを安心させるために、イエスは人々に回心する時間を与えながら忍耐強く待つことが必要だと、弟子たちを別の場所に連れて行き教えます。 と言うのも、必ずいつか良い結果が現れますから。
さらに、イエスは悪の力は、善の力と同じ速さで芽生えて成長することを教えています。 世界と私たちの心を侵略する悪の毒は、神の国を脅かしています。 たしかに善と悪は、混合しています。 と言うのは、ある所で良い人々(私たち)がいる、他の所で悪い人々(他の人)がいる訳ではありません。 この善と悪の混合について、イエスはびっくりさせる事を教えます。 「両方とも育つままにしておきなさい」と。 考えられないことですが、これは私たちが悪の力と共に生きることを忍耐強く耐え忍ぶことを教えているのです。
神の国は絶えず成長しているので、まだ完成の状態に辿り着けていません。 完成される時は審判の時であり、全てを整理する時になるでしょう。 ですから、今の間に私たちは他の人の罪を咎めることを辞め、神の国の成長に効果的に参加するようにと、イエスは私たちに願っています。 それに対して「聖霊は弱い私たちを助けてくださいます」と聖パウロは私たちを安心させます。 知恵の書の教えによると、忍耐とは神の力です。
ですから、祈りながら忍耐強く全てを耐え忍ぶことを学びましょう。 もし、善の味方に留まるように望んで心を整理する必要があるならば、それは自分のうちにであって、他の人のうちにではありません。 そうすれば、私たちは「父の国で太陽のように輝く正しい人々」(マタイ13,43)の数に数えられることになるでしょう。 アーメン。
年間第17主日 A年 2017年7月30日 グイノ・ジェラール神父
列王記上3,5-12 ローマ 8,28-30 マタイ 13,44-52
「ご計画に従って召されたわたしたちのためには、全てが益となるように神ご自身が働いています」。 このように昔神はソロモン王に知恵の貴重な賜物を与えました。 ソロモン王に委ねられた神の民を正しく、賢く支配するためにこの賜物は最も適切でした。 私たちはイエス・キリストの弟子ですから、自分の心の豊かさの中から新しいものと古いものを賢く取り出すことが必要です。 ソロモン王に倣って、識別する心、正しく判断する心を遠慮なく神に願いましょう。
知恵で満たされ、賢い心を持って、私たちは捨てるべきものと守るべきものを容易に見分けることができるのです。 その恵みを今日のミサの入祭祈願を祈る時に、次のように神に求めました。 「主よ、いつくしみを豊かにそそぎ、わたしたちを導いてください。 過ぎ行くものを正しく用い、永遠のものに心を向けることができますように」と。 私たちが自分たちに人生の最も重大、且つ本質的なものを再発見できるように、また私たちにとって本当の宝物であり、貴重な真珠のように値打ちのあることを識別できるように、今日イエスは私たちを招きます。
救いの良い知らせを自分の内に受け止めた人は「信仰の真珠」と「永遠の命の宝物」を発見するための恵みを受けました。 しかし、たとえ話の人物と違って値が付けられないほどの高価な救いを手に入れるためには、私たちは貧しくなる必要はありません。 私たちには、救いの代価は到底支払うことができないと、神はご存知です。 私たちに代わって、イエスが十字架上で死ぬことによって、その高い代価を支払いました。 従って、全ては無償で私たちに与えられました。 ですから、私たちは絶えず神に感謝しなければなりません。
聖ペトロは「知っているとおり、あなたがたが…キリストの尊い血によって贖われたのです」(参:1ペトロ1,18)と、私たちに思い起こさせます。 また聖パウロも次のことを教えています。 「キリストはすべての人の贖いとして御自身を献げられました」(参照:1テモテ2,6、テトス2,14)と。 更に聖ヨハネは黙示録の書を通して、天国の聖人が歌っている賛美歌の言葉を聞かせました。 「彼らは新しい歌を歌います。 『あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われました』」(参照:黙示:5,9)と。
神は永遠の愛で私たちを愛するので、全てが私たちの益となるように絶えず働いています。 ですから、神の言葉に注意深く耳を傾けましょう。 そして聖霊が私たちに与えようとする知恵で良い益となるものを探し、見分けることや永遠に残る「上にあるものに」(参照:コロサイ3,2)心を向けることを学びましょう。 最後に父なる神の栄光の内に、私たちを連れて行くイエスに忠実に従いましょう。 アーメン。
年間第19主日 A年 2017年8月13日 グイノ・ジェラール神父
列王記上19,9、11-13 ローマ 9,1-5 マタイ 14,22-33
本日、私たちは平和の恵みが与えられるようにと祈っています。私たちがこの賜物を求めるように、特に、今日の典礼の詩篇が私たちを誘っています。「わたしは神が語られることばを聞きます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に神は平和を宣言されます…愛と真理は出会い、正義と平和は抱き合い口づけします」〈参照:詩篇85,9-11〉と。平和が地球を潤す時、天は大いに喜びます。同時に、この天の喜びが平和のために働いている人々に与えられます。なぜなら、イエスはこの人々を「幸いな人」であり、また「神の子である」ことを断言したからです(参照:マタイ5,9)。
泉から流れ出る水が小川になるように、自分の心から流れ出る喜びによって、人は完全な人間になります。また 自分の心を満たし、自分の周りにいる人々にもたらす平和によって、人はより完全な人間になります。神に創造された人は喜びなしには生きることができません。そして平和は人のうちに喜びを守る役割を持っています。ですから、喜びと平和は親密に一致しています。それはちょうど、愛と真理、また正義と赦しが一致しているのと同じです。
喜びは平和の泉であり、平和は生きる喜びの泉です。神だけが与えることのできるこの平和と喜びを、私たちが住んでいるこの世界は性急に必要としています。そういう理由で、キリストは十字架上で手に入れたこの平和を、私たちはいつもミサ祭儀を通して神に願っています。また、ご自分の復活によってイエスが得た聖霊の喜びも神に切に求めています。なぜなら、このような喜びと平和なしには、この世界は必ず混沌の状態に戻るからです。
「わたしは主によって喜び祝う」(参照:詩篇104,34)、「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向って喜びの叫びをあげよう」(参照:詩篇 95,1)という詩篇の言葉を私たちはよく歌います。是非この言葉を暗記してください。この言葉があなたがたの唇から自然に溢れることが肝心です。この言葉は実際に生きた水の泉であり、信仰と真理に満ち、私たちのうちに神が望まれる「新しい人」、「聖霊に生かされた人」を形作りますから〈参照:エフェソ4,21−24)。私たちの喜びと平和が神ご自身ですので、神によってしか、私たちの全生涯が喜びと平和の泉にはなりません。というのは、神はどうしても私たちを愛の完成にまで引き寄せたいからです。
洋の東西を問わず、大勢の聖なる人物たちは同じメッセージを伝えています。それは「喜びを学びなさい、そうすれば神を知り、学ぶことになる」と。ホレブの山の頂きで絶望していた予言者エリヤは、神の再発見によって、自分が失った喜びと平和を取り戻しました。イエスを救い主として受け入れることを暴力で拒否するユダ人たちは、聖パウロの心を砕きました。しかし、異邦人に救いの良い知らせを宣言し続けたことによって、聖パウロは自分の魂に内面的な深い喜びと揺るぎない平和を保つことができました。神について証しすること、神と親しく話すことは心の中で喜びを味わい、そして豊かな平和をもたらします。この事実を決して忘れないでください。
「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ております」(参照:ローマ5,1)と、聖パウロは思い起こさせます。ですから、私たちが住んでいる世界が、神が与える喜びを知り、そして神の満たされる平和を味わうように、今日の平和旬間の時に熱心に祈りましょう。 「平和のために働く幸いな人」、喜びに光り輝く「神の子」になりましょう。アーメン。
年間第20主日A年 2017年8月20日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ56,1、6-7 ローマ11,13-15、29-32 マタイ15,21-28
「主よ、わたしを憐れんでください」毎朝この呼びかけで、全ての司祭たちは「教会の祈り」から一日が始まります。 毎日、「神よ、わたしを力づけ急いで助けにきてください」と言いながら、司祭たちは今日聞いた福音のカナンの女の祈願を繰り返しています。
古代から今日まで中東アジアの人々にとって、誰かを「犬め!」と言い侮辱の言葉を投げるのは、非常に重大な名誉棄損の言葉です。 たとえばイスラム教の人々は、ユダヤ人とキリスト者は正しい信仰を持たない人だと言って、彼らを「不忠実な犬」と名付けました。 聖書は、犬を悪いものとしていますので、イエスはカナンの女を追い払うためにこの一般的な侮辱の言葉を彼女に対して使いました。 たぶん、ちょうど犬が通り過ぎる人々に吠えるように、彼女が叫びながらイエスを追いかけているので、イエスはこの侮辱的な言葉を彼女に投げかけたと思われます。 しかし、カナンの女の賢い返答のお蔭で、イエスは彼女のために何とかしようと決めました。 「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。 あなたの願い通りになるように」と、イエスは感嘆して言います。
神は全ての人を救いたいけれども、しかし、この救いは選ばれたイスラエルの民を通して与えられています。 神が自分の民を選び、その民を通して世界の全ての民を救う計画を立てていることをカナンの女にイエスは思い起こさせようとしました。 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、イエスは言いました。 神の約束を受けたイスラエルの民が、救いの良い知らせを受けるように、イエスは使命を受けました。 異国の地で宣教することが効果的であることを(参照:マタイ11,20-24)イエスは知っていましたが、彼は神の計画に従順なので、イスラエルの民だけにしか宣教しませんでした。このことは、彼の苦しみの種となりました。 ですからカナンの女の揺るぎない信頼と忍耐を見て、イエスは自分の考えを修正することが必要でした。 そして、彼女を助けることを決めました。
すでに預言者イザヤは、ユダヤ教に入ろうとしていた異邦人たちをエルサレムの神殿に受け入れることを次のように強く勧めていました。 「主はこう言われる。 『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』」と。 また、キリスト者となった異邦人に宛てて、聖パウロは、ローマ人の手紙を通してどうして彼らを喜びのうちに歓迎するかを説明します。 と言うのは、イスラエルの民の使命は、自分たちだけの神を拝むことではなくて、むしろ全ての善意の人に知らせる使命を持っていることを聖パウロはよく知っているからです。 「神は差別なしに、すべての人を憐れみます」と、聖パウロは書きました。
同じ信仰を持っていない人々の生き方は、私たちが正しく信じることができるための助けになる可能性が多くあります。 私たちと違っている人々は、必ず私たちに良いものをもたらすことを忘れないようにしましょう。 同時に、私たちも自分の生き方によって、私たちの信仰を持っていない人々を豊かにすることができるのです。 私たちと違う人を侮辱すること、迫害すること、辱めることなどは、妬みと分裂の壁を建てることであり、また悪霊どもの仕事に手を出すだけのことです。
偏見と信頼出来ない事が私たちを待ち伏せる時、そして他人を見捨てることを誘う時、私たちは待たずにカナンの女の言葉を借りてイエスに叫びましょう。 「神よ、わたしを力づけ急いで助けにきてください」と。 このようにして、私たちは人々を分裂させようとする様々の相違を通して、神の救いが豊かに与えられていることを見分けることができるのです。 聖霊の助けによって、私たちが世を救うよい選びができますように。 私たちと違っている人々に対する歓迎や信頼、心を開く努力は、神ご自身の神秘と深く出会い、それを体験することを可能とすることを良く知って下さい。 アーメン。
年間第21主日 A年 2017年8月27日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ22,19-23 ローマ 11,33-36 マタイ16,13-20
「わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。 彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう」。 これらの神の言葉は、宮廷を支配する新しい責任者となったエルヤキムに言われた言葉です。 ペトロにご自分の権力と権威を授けるために、イエスは同じ言葉を繰り返しました。 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。 あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。 あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と。
誰かに自分の鍵を預けることは、大きな信頼の印です。 重大な責任をペトロに授けることで、イエスは彼に対するご自分の信頼を示しました。 「解くことと、解かれること」また「開くことと、閉じること」の責任を受けることで、ペトロはイエスの代理者になり、そして神ご自身がペトロの決めたことを保証することになります。 これこそ考えられないほどの信頼の明白な印です。
ペトロが天国の門番であったとしても、彼が鍵を持つ必要はありません。 なぜなら、ご存じのように、ペトロの前でドアが自動的に開くからです。 使徒たちの宣教の話を思い起こしましょう。 「天使とペトロは第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、マルコの母の家に行きました」(参照:使徒12,10-12)と。 しかしそれにも拘らず、ペトロがマルコの母の家のドアを開けてもらうために、長く待ちました。 と言うのは「ペトロは門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出てきた。 ペトロの声と分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた」(参照:使徒12,13-14)からです。
自分がある程度、開かれた心を待たない限り、鍵を持つことは役に立ちません。 ペトロの心は寛大で直ぐに思ったことを自主的に言い現すので、ペトロはその開かれた心の内に神の賜物を受け止めることができました。 また、ペトロは私たちのために、神の国の神秘の門を大きく開く人です。 岩であるペトロに建てられたキリストの教会も、神の慈しみに人々の心を開く使命を果たさなければなりません。 また、人々を目覚めさせ、神の神秘を味わわせるために、教会は救いと希望と赦しの門を大きく開く使命を果たし続けています。
私たちもキリストの弟子たちとして、全ての人々と正しく、兄弟的に絆を繋ぐことを学びましょう。 同時に、人々の自由と幸せを縛っている物事を解くことも学びましょう。 確かに、キリスト者と呼ばれている私たちは「解くと解かれる」こと、そして「開くと閉じる」ことのできるキリストの教会です。
更に、教会の息子と娘として、私たちは教会に委ねられた開放の使命に与かるように召されています。 「あなたはメシア、生ける神の子です」と宣言しながら、ペトロは自分の信仰の内に全世界を引き寄せました。 ペトロの後継者となっている私たちも、恐れずにキリストにおける信仰を宣言しましょう。 心を閉じることなく、信仰の揺るぎない岩に自分が力強く建てられているかを唯一の心配事にしましょう。 信仰が私たちの手に永遠の幸福の鍵を与えました。 ですから、人々に対して閉じた心のままでなく、イエスがご自分の心の幅に私たちの心を大きく開き広げてくださるように祈りましょう。 それは私たちの心がいつくしみと赦しと愛で満ち溢れるためです。 アーメン。
年間第22主日A年 2017年9月3日 グイノ・ジェラール神父
エレミヤ 20,7-9 ローマ 12,1-2 マタイ16,21-27
「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と。 神を喜ばせるために自分たちの考え方と生き方を絶えず新たにするように聖パウロは私たちを誘います。 神を喜ばす事は、神のみ旨を行う事であり、悪の技を退けて善を選ぶ事です。
「わたしのために命を失う者は、それを得る」とイエスは断言しました。 自分たちのうちにある「古い人」は死ななければなりません。 それは神を喜ばす新しい人に場所を譲り与えるためです。 昔、預言者エレミヤは自分を迫害していた人を避けることを捨てて、命懸けで、授けられた使命を忠実に果たすように、苦しい戦いを戦いました。 イエスも父なる神が定められた救いの計画を実現するために、弟子たちの無理解と反抗に対して戦うことが必要でした。
「サタン、引き下がれ。 あなたはわたしの邪魔をする者。 神のことを思わず、人間のことを思っている」と言いながら、イエスはペトロを厳しく咎めました。 しかし、ほんの少し前に、イエスはペトロに天国の鍵を委ねました。 私たちの考えが神の考えではない時に、この人間的な考えは神を退け、また命の道を退けます。 キリストに従って、十字架を背負うことを退けることは、神が様々な困難を通して私たちの生き方を導くことを退けることです。 十字架を退けることは、神の憐れみと摂理によって神秘的に導かれ、支えられることを拒む事です。
むしろ、十字架を背負うことは山を動かすことができる信仰の行いです。 キリストに従って、十字架を背負うことは命が死よりも強いということを宣言することです。 つまり、復活と希望の証人であることを現すことです。 キリストに従って、十字架を背負うことは、試練と思いがけない状況にも関わらず、神が永遠に命の主であることを体験することです。 そういう訳で聖パウロは「この世に倣ってはなりません。 むしろ,神の御心であり、神に喜ばれ、また完全なことを探し求める」ことを私たちに勧めます。 失われたものを探し求め、救うために来られたキリストを模範とし、自分の十字架を背負う人は、試練と思いがけない苦しみの中にあっても、命が湧き出て溢れるようにその方法を探し求める、救いの協力者です。
私たちに与えられている信仰は、試練と問題を避けるためではなく、その試練と問題を、神を喜ばす聖なる生けるいけにえに変化させるためです。 信仰によってキリストに結ばれて、私たちは愛と救いの素晴らしい神秘に与るようになりました。 自分たちの考え方が、神ご自身の考えとなるように、信仰は教え導きます。 また、キリストに強く結ばれた状態で、キリストを真似るように信仰は私たちに教えています。 さらに、信仰は私たちの前に命の門を大きく開いています。 ですから十字架の試練と出会う時が来れば、勇気を持ってこの十字架を掴んで背負って、信仰の力に強められて、イエスの後に忠実に歩み続けましょう。 アーメン。
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